ドルジェ 山梨水晶館
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水晶加工の歴史
水晶産地山梨では前期縄文時代より生活の道具として水晶を利用していました。玉屋弥助の「玉造り技法伝授」は
有名な話ですが、山梨ではもっと古くより玉造りが行われていたと考えられます。弥助の伝授は水晶を樋(トイ)に
乗せ金剛砂(奈良県産)を使い上下に転がし球に研磨してゆく技法で、それまでの原始的手法に比べると格段の早さ
で丸みと光沢が得られたようです。この技法は明治時代まで山梨では使われていました。
現在の溝皿平面盤は弥助の樋にヒントを得ているのではないでしょうか。

真言宗本連数珠水晶製
  真言宗本連数珠水晶製 角田氏所蔵
江戸時代の加工と思われますが修理跡や交換箇所もあり未確定です。青と赤の玉はガラスです。


たたき穴の親玉(三穴)
たたき穴の拡大写真
古い手摺り玉

たたき穴(叩き穴)とは釘に焼きを入れたタガネで水晶の目(劈開)を見ながら少しづつ欠き貫通させる手法。拡大写真に見られるヒビ割れが穴の周囲に残る。穴が大きい親玉は3方向から叩くため穴磨きをしても中心部のヒビが残る。昭和初めまでの品物にたたき穴はみられるが現在は超音波やレーザーで開けるため手作業のたたき穴は貴重な作りと言えます。

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水晶加工の歴史II 明治以降
江戸時代は鉱石採掘を幕府が統制していたために山梨でも採掘量は少なく、僅かな水晶は京都に送られ玉造り達により数珠が作られていました。 明治に入ると政府の命を受けた和田維四郎、ドイツのナウマン等により日本の地質鉱物の研究も進み、山梨の水晶(日本式双晶等)は一躍世界に知られる事となりました。この頃より倉沢鉱山、竹森鉱山、黒平鉱山も再開し、甲府市における水晶研磨も盛んになり、後には水晶産業従事者は1万人越えと言われるほどの大きな産業に発展しました。 明治の偉人百瀬康吉のコレクションもこの時期の物で、当時の山梨県師範学校(現山梨大学)へ不燃焼標本室保管(現水晶庫)と他への散逸なき事を切望し大正8年に寄贈しました。
戦争中、教師と学生は「百瀬コレクション」として名高い水晶を守るために、水晶庫を竹堀で覆い空襲による被害を防ぎ、戦後はGHQの接収から免れるために藁と牛糞でカモフラージュしたそうです。 先人達がまさに命懸けで死守した百瀬コレクションと水晶庫を康吉の意思である「学術研究並に教育上の参考品」として後世に残し続けていただきたいと思います。


砿物小學 松本栄三郎 明治14年

↑記述では直径約20cmの丸玉が研磨されたようです。この大玉を研磨 するには職人が3人〜5人で玉を囲んで磨いたそうです。 当時はウィーン万国博覧会をはじめ輸出用に大型丸玉も甲府で研磨しました
←左記のように当時水晶は「水精」と表記されていました。

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甲府の水晶研磨は技法(研磨について参照)により職人(研磨屋)が違いますが下仕事もそれぞれに職人が異なり分業化されていました。大割り屋 小割り屋 かっこみ(欠っこみ)屋 穴あけ屋 穴磨屋 ラック屋などと呼ばれやはり手作業による仕事でした。
現在でもこれらの呼び名は使われていますが、かっこみ屋とラック屋は機械化と仕事不足の為なくなりました。

小割り前の原石
小割り前の原石
かっこみ・ヤットコで石を欠き整形
かっこみ・ヤットコで石を欠き整形
ミシンを使い穴あけ
ミシンを使い穴あけ



手摺り水晶印材 明治〜昭和
山梨は印鑑も古い歴史があり有名です。
透明水晶よりもインクルージョンを生かした印材が珍重され手彫りによる篆刻職人も大勢いました。
一個摺り(手摺り)のなつめカット (82面)



昭和30年代に作られた昇仙峡の土産品

@は水晶峠産、ブラジル産水晶、黄鉄鉱をコンク
 リートに付けています。

Aは乙女鉱山産の母岩に水晶峠産水晶をボンド
 で貼り付けてあります。






戦後は国内外への土産品も数多く作られました。スターカットやスカラベ、裏彫り(インタリオ)の五重の塔など昭和50年頃まで水晶研磨産業は発展しましたが、その後安価な輸入品や変動為替相場の恩恵を受けた宝飾品ブームにより水晶研磨産業は衰退してしまいました。
現在、本当に腕のいい研磨師はわずかですが伝統研磨技術のもと後世に残る作品を作り続けています。

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水晶加工の歴史 工業品
丸玉や切子(カット)の水晶研磨技術を生かし一部の研磨工場はレンズなどの工業製品の研磨を初めました。近代化や開戦によりプリズムや無線機用の水晶振動子など国策としての工業製品のため、より精度の高い研磨技術が求められました。当初は山梨産の水晶も使っていましたが、需要に間に合わず大半はブラジル産水晶(大正7年より輸入)を加工していました。しかし第二次世界大戦中はアメリカ軍による海上封鎖などもあり再び甲府市黒平町の向山鉱山などが開発され山梨産水晶が注目されました。昭和20年7月の甲府空襲は軍需工場があった為との説もあるようです。山梨産水晶原石や明治から昭和初期に作られた水晶製品はB-29の空爆により焼失してしまい現存するものは極僅かになってしまいました。
戦後も天然水晶を使い工業製品を研磨していましたが双晶や不純物のためロスも多く高コストでした。1953年山梨大学で日本初の人工水晶の研究が開始され現在の水晶振動子産業の基礎が築かれました。


眼鏡用レンズ 天然水晶


海軍より受注のプリズム等 潜望鏡パーツ 天然水晶

水晶振動子 天然水晶


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人工水晶(合成水晶)について

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